温泉神社のイベント広場。昔は相撲場でした
日奈久の地に湧出する自然の恵みである源泉の発見については、古くより次のような言い伝えがあります。
延元三年(1339年)、時の政権・足利尊氏が、肥後の菊池氏討伐に差し向けた甲斐重村の配下に浜田右近という者がいました。
浜田右近は、激戦の中で足に刀傷を負い、追っ手をのがれ八代の小島において月日を過ごしました。その折に、小島への出漁をしていた日奈久の郷の漁民達と親しくなり、漁民の子供達の読み書きの師匠として迎えられて、漁民達の敬愛を一身に集めるようになりました。
その後日奈久に移り住んだ浜田右近は、里の娘と結婚し、男の子を授かって『六郎左衛門』と名付けました。
温泉神社
六郎左衛門は、父の刀傷の治療を願い、安芸の宮島の厳島明神(いつくしまみょうじん)に祈願すること7日間、満願の夜に夢の中で神のお告げがあり、そのお告げの地形をたどったところ、干潟の中に奇石がありました。その奇石を掘り起こすと、そこから温泉が懇々(こんこん)と湧き出たそうです。
この温泉に父・右近を入浴させたところ、刀傷も治ったそうです。
六郎左衛門の孝行の心が神の御心に感ぜられ、温泉となって表れたのでしょう。
そのことから日奈久温泉は『孝感泉』と呼ばれるようになりました。
現在温泉神社の境内にある六郎神社は、六郎左衛門と父・右近を祭神とし、『親孝行』『家庭円満』『傷病回復』に御利益があると言われています。
干潟の中にひっそりと湧いていた日奈久温泉に、細川藩は明暦3年(1657)温泉浴室を大改築。大規模な藩営の温泉場ができました。
藩主が入浴する「御前湯」、武士のための「お次ぎの湯」平民のための「平湯」の三つの仕切りをつけた、身分に分けた浴槽で、画期的なものでした。
その後明暦の藩営浴場は、何度も大火で焼失しますが、そのたびに復興されました。
明治になってからは、藩の直営を離れ、御前湯、お次ぎの湯は有料、平湯は無料となりました。平湯は間仕切りをつけて混浴禁止となったとされています。
本湯(現在の温泉センター)
薩摩街道は、熊本と薩摩(鹿児島)を結ぶ江戸時代の幹線です。この街道が、日奈久の真ん中を通っていました。
日奈久温泉駅前を過ぎて200mほどで国道と分岐する左斜めの道が薩摩街道です。常夜灯が立っております。
現温泉センター、ばんぺい湯は日奈久の本湯。藩営温泉の跡です。
江戸時代当時は、日奈久から船便も各方面へ出ていました。まさに薩摩街道の中間の要として栄えていたのです。
金波楼前の通り
日奈久の街並と八代海
文化文政の全国温泉番付にも登場し、江戸時代に黄金時代を迎えた日奈久温泉。江戸末期には、花街もあったといいます。またおきんじょ人形のモデルにもなった湯女「おきん」の名声がとどろいていたのもこの頃です。
明治時代に入ると、宿もぐんと増えて、文人や名士たちも多く訪れるようになりました。交通の発達とともに、温泉町はますます栄えていきました。
金波楼の創業は、明治43年。多くの宿がひしめく賑やかな時代だったことと思います。
日中戦争がはじまっても、旅館は陸軍病院の保養所となり、二葉山などが慰問に訪れたといいます。
現在も、故き良き時代の面影を残す温泉町、日奈久。ぜひ一度足をお運びください。

土蔵造りの建物

丑の湯祭り

毎年土用丑の日の丑の湯祭り

恵比寿さん
9月の15夜(旧暦8月15日)の
十五夜綱引き